2 years ago
twitter論 再びの。。。続編
Twitterが論議に向かないのは確かだが、mixiもそうだったし、blogそうだったことを忘れてはいけない。論議はblogは、無理と可成り前に体験しはず。比較的、同じ方向性、同じ価値観、同じゴールを目指す人の論議(論議と言うよりもある一定レンジ内でのモードの割り出し行為)には充分に使える。ところが、価値感が違う、極論を持っている、自己を自己以上に見せることを旨としている人などが加わった途端に論議は破綻してしまう。
実際に、人が集まって空気を読んで(別に迎合する意味ではなくて、流れを読みながら乗るところ降りるところを読み取る)論議に加わる方が双方に建設的。迎合的なものがはいると別の方向に行ってしまうので注意がいる。
逆に言えば、ネット上の論議は迎合、あるいは其処まで言わないが心地よい同意を求める環境を形成して行く傾向があるので、世間の空気を読むのには向かない。その場合も、突出した意見がそした環境の殻を突き破り刺入してくるのが特徴であるが。
脇へそれるが、著名人は「反論する権利」の名の下にその刺入者を木っ端みじんにたたき壊しさらに踏みつけるのが特徴的。一般人は、刺入者の発言に心折れる。度を越しているという事に耳を貸さないのも特徴的で面白い。実社会でまれに起きる、著名人による度を大幅に超した暴行事件の希釈版を見ている思いがするときがある。
全く違う場面であるが、往々にして著名人の発言は棘があるから美しいので、著名人の発言の棘で心が折れることを、発言者が知らない場面も多くある。発言のやり取りや、メッセージやり取りが著名人はフォロウが入らないので言い放しになって、相手が深く傷ついていることに殆ど思いが至って居ない。
話はもどるが、ネットは時間・空間を大きく超える環境(手段ともいえる)を提供するのだが、コミュニケーションは「手段」 によってだけ維持されているのではなくて、大いに「場」それも物理的な実在の「場」でのみ維持できるので、実際の集いなくして深い話は出来ない。所詮、同意を求めた波乗り、あるいは流浪、に過ぎないような事に成って居る。
文字、文字+画像、音声付き動画VOD、音声付き動画ストリーム+文字(オプション)、実際の音声(双方向実時間)、双方向動画付き音声、実際の場での人対人相互作用の順序(初め→後の順序で背昇べきの順)で、伝えるものが増えるので討論も至適なものが出て来るようにおもう。もちろん討論の破綻だってあるんどあが、それはそれで結論であると思うし。
Blogその他は個々にえはなくてあくまでも全体として、討論のための素材の提供、意見の広がりの一覧表示になるのでは。新聞の意見広告みたい役割を持つのであって、新聞の意見広告自体が論議の手段ではないのと全く同じなのではないだろうか?
(前スレ http://apogee.at/post/300428989/twitter)
